11月12日夜頂いた事をことをです、はじめからもう皆さん、頭を下げています。そのふんいきがすばらしいです。一言でも聞き漏らさない。又頂いた事を十二分に聞いて頂こう。有り難いふんいきができます。そこのところを私は大事にしていきます。せっかくテ-プにとられるのにタイミングをよくしなければならない。私が活かそうと思うとらんのに、テ-プがジ-と回とったら、それに私が気をとられて言葉をだそうとするチャンスをなくしてしまう。皆さんも           芝居の演出なんかたくみに取り入れてある。特に歌舞伎なんか見せて頂きますとさまざまな演出がなされます。たとえばひき幕が引かれますと、役者がちゃんと真中に立っている。その役者は見せない。赤幕がしてある幕があくから観客の目はみんな舞台に集中している。咳払い一つない。幕はあいたけど赤幕がしてある。向こうの役者が置き人形を置いたようにきっまている。皆の目が集中した時、赤幕がポッと落とされる。もうそこにでてくる役者の姿、観客のハアッというあれだけで、芝居の雰囲気がでてきます。そんなものを感じます。私が御理解を伝える時、ただ頂いたことをいきなりさんぱつ、私がお話しただけではいけない。皆の呼吸というものが合わなければいけない。野崎なんかのお芝居なんかでやる、舞台の真中にこうノレンがかかっている。お芝居にはじまる前に、お先がノレンの中から顔だけ出すところがある。あれはすじでもなからねば特別の演技が必要というわけでもない。観客とそれをやる役者の気持ちを合わせるため、あのノレンの中から見事な顔だけ出すと、見て声でもかけたいような思いが盛り上がってくる。それから幕の中に消えてから、しばらくしてから出てくるという演出方法をやってますね。ここで私はどんなにすばらしいふんそうをこらして、ノレンのなかからちょっと顔を出すといたしましょう。そうゆう演出をいたしまして、今日頂いている御理解のすばらしい御理解。私の心が有り難うなった。この御理解を早う皆さんに伝えたいという気持ちを盛り上げるために、いうならノレンから顔を出す。とたんにお互いの心と心が合う。そこから次の演技がなされてゆくのだけど、悲しいかな椛目の場合、私がこの御理解を頂けば助かる。今までわからなかったことがわかったというような、すばらしい御理解を頂きましても、観客の方がまばらである。おしいことである。その間のことを神様に対して相済まんなあと思うのです。先ほども御祈念前に古賀先生をちょっと呼んでから、この御理解百節の中から、今教団でえらい先生方が御理解の解説をなさっておられますが、度々の新聞にのっています。ところがそれは通り一遍の解説であって、教祖の信心の芯に触れたと言うことはひとつも感じることがありません。魅力を感じません。只とおり一遍のことを、常識論ですね。教祖の信心の核心に触れる。この御理解で人が助かる。心が救われる。心が開けるということがないですね。それにしても、私がこの御理解だけはトンチンカンでわからないなあと思っている。御理解でヒントを頂くのです。ヒントを頂いてみたらすばらしいなあと、ちょっと古賀先生どう思うねと、私が頂いたところをみせたらすばらしいですね。こうゆうところをですね、説明してくれる人、教えてくれる人がないのですから、そうゆう御理解を伝えましてもです。さあ聞く人がなかったらどうします。まあ十人か二十人の人が聞いて下さる。それだけでもよいのですが、このお広前一パイの人が聞いてくれる人があったら、どうゆうことになってくるだろうか。雰囲気がもっと盛り上がってくるだろうと、こう私は思うのです。そこにこちらの力不足を感じます。いよいよ修行指してもらわねばと思うのです。今日熊本から二人三人参って見えました。丁度私が退る前でしたから、御理解も伝えず朝の御理解を頂いて、お食事でも差し上げてから、そのあとでしたお神酒をちょっと差し上げたのですから、眠気がきてお話をしながら、先生何か一言でも頂かせて下さい。それをお土産に帰りますからといわれる。何か一言でもと思って、座り直して伝えさせて頂いたことでしたが、その一言が有り難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬ神徳がある言葉なのです。おかげ頂きました。これで又しばらくもてると言われます。教祖の神様も御理解六十四節、この方は参って尋ねるところがなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参ってくるが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれと教えておられます。この方は参って尋ねるところがなかった。ここに参ってくるとそれを聞いて帰ることができるじゃないか。ここの場合だっていつの場合だって、私の知恵ではなしていることはないです。たとえば歌舞伎の演出のことを話しましたけど、ここに座って頂くのです。頂いた事を聞いて帰って、それを自分の身に受ける徳としなければならない。そして身しのぎの出来るようにならなければならない。又それをおかげ頂くならば、身しのぎの出来るような徳も受けられる。と言う話なのです。椛目の話は、いうなら御理解一つ解かせて頂くでも、御理解の解説でも通り一遍の常識論ではなくて、教祖の神様はここの所に重点を置いて、この御理解を解いておられるというところを頂けるというだけでも、すばらしいですね。有り難いですねと言うことになるのです。求めておれば、こりゃどうしても椛目で、御理解百節の本当の解説集を作らせていただく、おかげを頂かにゃ、十何年間解かせて頂く中に、御理解の芯に触れたものが沢山あるのです。それを      して、この御理解はこうゆう心を持って、意味を持ってお解きになっているのだということを、すぐわかるような御理解もあるけれど、何じゃかんじゃわからんような御理解もある。すぐわかるのはあまり浅いところしかわかっていないのであり、何やかんやわからんのは、只読んでいるだけであって、わからんなり過ごしてしまっているというのでは、折角の御理解百節が死んでしまうことになる私御祈念つかせて頂きましたら、こんなことを頂いた「冬暖や日葬場までの浜ずたい」冬は寒いものと相場がきまっている。何か旬としてもそくそくと伝わってくるようなものを感じるでしょう。この句はいい句ですね。句そのものはそうゆうものを訴えるものですが、けどもこれを神様が下さるからには御理解なのです冬暖、たとえば冬は寒いものと相場が決まっている。修行は辛いもんと相場が決まっている。只今修行中と感じている人、思うている人が冬にぬくければよいがというようなことではおかげは受けられぬ。火葬場までの浜ずたいのまま、一生修行の成就ということには、なってこないとゆうこと。只今修行中。冬は寒いと相場が決まっているから、寒いと言うことの中に、冬の有り難さを分からせていただこうと、只今修行中、楽な方へ楽なほうへと道をとろうとする。金で難儀をしている人、それを修行と心得ず、楽な方へ楽な方へと道をとってゆく人は、一生修行が続くだろう。火葬場までも死ぬまでも、その修行は続くだろうということ。神様が私共に修行をさせなさる。金の修行をさせござる。身体の修行をさせござる。人間関係の修行をさせござる。でなかったら余りにも次から次へと、不思議な位に同じ修行が続いておる。そこに気付かせて頂いたら、その修行を頂き抜かせて頂くという、修行精神がなからねばおかげは受けられない。何がり何がりした修行じゃつまらん。たとえば苦しかってもです。楽な方へ楽な方へ、かたむいてしまったり、楽な方をとろうとせず、そこの所を頂き抜かにゃいけん。金が無いとすぐ、そこここに借りに行こうとする。食物が無いと、すぐその方に、神様が食べるなと言われるなら食べない。金がなくて借金取りの難儀を感ずるなら、えげつない修行をさせてもらうなら、それをまともから受けようという気にならにゃ駄目だ。自分の身体が弱いからというて、楽な方へ楽な方へ行っては、いつまでたってもおかげは受けられない。それこそ火葬場までの浜づたいになってしまう。それは皆さんのことではない。私の上にも同じことである。修行を気付いたならば、これを頂き抜かねばならないなあと、私がそこんとこを頂けんから、いつまでたっても神様から頂いた、こうゆうすばらしい御理解を頂いてもです、それを聞く氏子がおかげにしきらん。イヤその聞く氏子が、ほんの一部分の人だけである。いかに見せ場であるという幕があいても、皆のまなこが舞台の上に注がれて、その注がれた目というものがです、何人かの人が注いでいるのではこれはつまらん話だと思うのです。どんなにすばらしい演出方法を以てしても、何人が顔を動かした。その顔はすばらしかったけれども、見る人がバラバラであってはたいしたことないでしょう。それがあのノレンから顔をだした時は、もう向こうにはギッシリと観衆がつめかけておる。のぞいた役者の気持ちが、もうパッと嬉しいとか、やり甲斐があるとかいったものが感じられると思う。そうゆうようなおかげを頂くのも、先ず私が今のようなことでは、火葬場までの磯づたい。こうゆうことでは、椛目は一生この位のことでしまわなければならない。それでは神様に対して相済まない。神様の求め給う修行をやり抜ねばならない。私自身これを頂いて感じたのです。でなかったらこの珠玉にも似た教えが無駄になってしまう。惜しい惜しいばかりではない。神様に相済まん。そん気がしたのです。皆さんもです、只今修行中と感じたならば、おかげ頂くまで頑張り抜くぞという意欲に燃えた修行をさして頂かねばならない。そして神徳を受けて、身しのぎの出来るおかげを頂かしてもらわねばならい。それは五人でも十人でも、私の話を本気で聞いてくださり、その方達が身しのぎの出来る信心を頂いて下さるおかげを頂いてくだされば、それに五人の人が、十人の人を導いて下されば五十人です十人居れば、百人の人が多くなってゆくわけですから、問題は皆さんがおかげを受けて下さらなならん。為には一人で、十人分でも頂きますからと言う人があるここに二十人の人が居られますから、一人で十人分でも頂こうという人があれば二百人の人が頂ける気持ちで、私が伝えることができるのです。只、晩になったから参りよる。朝になったから御祈念に参りよるというものではなくて。一番初めに、私が御結界についた瞬間、私はその瞬間を大事にする。そして今から、神のお言葉を私の心に頂いている。御教えをこれから伝えようと、私と皆さんの心がパッと合う。それを私はもたせて頂くのです。ためにはこれを録音する先生方もです。もう本当に全身を針のようにして、私の一挙手一動に注目しておらねば駄目だと、私がここでポンポンと叩かなければ、気付かないようなことではでけん。前でお話しようと思っていないのに、テ-プが回っている。その音を聞いただけで、お話する気はなくなる。本当にここで御用して下さる人、録音をして下さる人、話を聞いて下さる人の呼吸が、パッと合う様な雰囲気を作って頂くことに努力をして頂かねばならない。そして御理解です。御理解は今、申します様な気持ちで聞いて下さい。この方は話を聞くところがなかったと教祖はおしゃるがここでもそうです。……テープ途中切れ